2008年2学期講義、学部「哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」  入江幸男
大学院「現代哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」

第5回講義 (200811月11日)
 
<パトナムの議論の検討>
 
(1)パトナムは、クワインの分析的真理と綜合的真理の区別批判を、アプリオリな真理とアポステリオリな真理の区別批判として、表現すべきであったという。("Realisim and Reason Philosophical Papers vol 3” Cambridge UP. 1983, p. 88)また、クワインが、この二つの区別をほとんど同一視しているというのである。そして、「クワインによって、分析性は、訂正不可能性(unrevisability)と同一視されている」(p.98)という。
 そこから、パトナムのクワイン批判は、訂正不可能な言明の存在を示すことに向かうのである。
 分析/綜合の区別を批判するとき、二通りの方法がある。(1)一つは、これらの概念の区別が明確でないことを批判することである。(2)もう一つは、その概念の区別を前提した上で、しかし、分析的真理である真理が実際には存在しないと批判するやり方である。 クワインが試みたのは(1)である。これに対して、パトナムは、(2)の方法に関しての批判だけをしているように見えるかもしれない。しかし、そうではない。パトナムの議論は、次のように進んでいた。
同義性にもとづいて論理的に真である言明に変換できる言明に関して、クワインは「同義性」をうまく説明できないとあきらめたのである。しかし、パトナムは、(以下に述べるように)「同義性」の説明が出来ると考えている。そこで、彼が次に向かうのは、論理的に真である言明の確保である。しかし、それについては、前回述べた批判、また、次の批判が可能である。
 
(2)パトナムへの批判
パトナムは、少なくとも一つの言明p「すべての言明が同時に真かつ偽であるということはない」はアプリオリである、という。その根拠は、「完全に理性的な存在者がそれを否定することはありえない」ということである。
 
この根拠は、どういう意味なのだろうか。
「完全に理性的な存在がそれ(p)を否定することはありえない」ということが、事実に基づく判断であれば、pの主張は事実に基づくことになり、pは分析的ではないことになる。したがって、「完全に理性的な存在がそれを否定することはありえない」もまたアプリオリでなければならない。これが、アプリオリに成り立つとすれば、この言明の意味にのみ基づいて成り立つのだから、「完全に理性的な存在」や「否定」や「ありえない」などの意味にもとづくのである。このとき「完全に理性的な存在」の意味は、定義によって与えられる必要があるのではないだろうか。しかし、その定義は事実に基づくということになっていまわないだろうか。
 
 
(3)「同義性」に関するパトナムの議論
Two dogmas” revisited” in Realisim and Reason Philosophical Papers vol 3
において、パトナムは、クワインの同義性についての議論を批判して次のように言う。
パトナムは、「自然種語」に関しては、同義性を定義が出来ると主張するのである。
 
「私が、クワインの議論がまずい議論であるというとき、私はここで同義性の理論を提示することを申し出ているのではない。いずれにせよ、私は、完全で満足のいく理論を持っていない。しかし、私が数年前に書いた論文(Putnam1962a)において、私は、「全ての独身男は結婚していない」「全てのvixensfoxesである」などの言明の分析性を説明する理論のアウトラインを示した。そのアイデアの要点は、こうである。名詞「独身男」と結びついた例外のない「法側」つまり「ある者が独身男であるのは、彼が決して結婚したことがないとき、そのときに限る」、また名詞「vixen」に結びついた例外のない法則、つまり「何かがvixenであるのは、それがメスの狐であるときそのときに限る」。さらに、この例外のない法則は、それぞれの場合に、二つの重要な特徴をもっている。(1)「のときそのときに限る」という例外のない他の言明が、話し手によってその名詞と結び付けられていないこと、(2)「のときそのときに限る」というここで問題の例外のない言明が、基準であるciriterionである。つまり、話してはある者が独身男とであるかどうかを、それが結婚していない男であるかどうかを見ることによって言うことができる、ないし言う。
(そのような「であるときそのときに限り」という言明が基準として機能しているかどうか、について語るための操作的な手続きを、私の論文で示唆した。私は、自然言語の中の数百の単語だけが、この”one-criterion“特徴を持っていることを強く主張した。私はさらに、分析性の明晰なケースはすべて、これらの特殊な数百の単語を含んでいることを示唆した。)
さらに最近の出版(Putnam, 1975a)において、私は、指示の因果説という用語で、意味論を開始を提供し、また私がステレオタイプとよぶものの理論を提供した。この理論は、自然種語の同義性に関する議論を提供することが出来ると、期待している。この研究の基礎になっているのは、我々がよい定義を持とうとそうでなかろうと、同義性の概念の正当性と言語学的な有用性について、私が楽観的に感じているということである。」(pp.89-90
 
ここでPutnamは、「自然種語」と彼が呼ぶ数百の単語については、上述のような同義性の定義ができると考えている。我々は、この方向での試みを、クリプキの『名指しと必然』をもとに紹介し、検討したい。
 
 
          §6 クリプキの「アプリオリ」概念
 
1、クリプキによる「アプリオリ」「必然的」「分析的」の定義
 
クリプキは、『名指しと必然性』において、「アプリオリ」と「アプポステリオリ」、「分析的」と「綜合的」、「必然的」と「偶然的」の区別を主張している。
(参考文献、Saul Kripke, Naming and Necesity, Brackwell, 1972.
 ソール A. クリプキ『名指しと必然性』八木沢敬、野家啓一訳、産業図書、1985。以下の引用は、この翻訳からのものである。)
 
■「アプリオリ」の定義
「アプリオリ」や「必然的」といった術語が伝統的にどう規定されてきたかを検討しよう。第一に、アプリオリ性という概念は認識論上の概念である。カント以来の伝統的な規定は、次のようなものになると思う。アプリオリな真理とは、いかなる経験にも依存することなく知ることが出来るものである。この規定は、我々が本題に入る前に、もう一つの問題を持ち込む。というのは、「アプリオリ」の規定の中にもう一つの様相が入っている、すなわち、それはいかなる経験にも依存することなく知ることができるものと規定されているからである。それは、いかなる経験にも依存することなく知ることが(我々が実際にそれをいかなる経験にも依存することなく知るかどうかには関わらず)何らかの意味で可能だ、ということを意味する。では、誰にとって可能なのか。神にとってか。火星人にとってか。それとも我々のような心をもった人間だけにとってか。これを明らかにするだけでも、どういう種類の可能性がここで問題になっているのかについて、難問が山ほども持ち上がることだろう。」(39)
 
「私はここでは、アプリオリ性の概念に関して持ち上がる問題にこれ以上深入りするつもりはない。この概念の規定の中に現れる様相を出来る(can)からねばならない(must)にどうしたものか変えてしまう哲学者達がいる。もし何かがアプリオリな知識の領域に属するならば、それを経験的に知ることは決してできない、と彼らは考える。」
「「アプリオリに知られうる」は「アプリオリに知られねばならない」を意味しはしないのである。」40 たとえば、ある数が素数であることは、アプリオリに知りうることである。しかし、そのことを計算機をつかって知るとき、「我々が、もしこの数が素数だと信じるならば、物理学法則やその機械の構造などの知識にもとづいて、それを信じるのである」つまり、経験的な証拠に基づいて知るのである(Cf.40)
 
■「必然性」の定義
 
「問題となる第二の概念は、必然性の概念である。これは時に認識論的につかわれることもあるが、その場合は単にアプリオリの意味だと考えてよい。そして、物理的必然性と論理的必然性を区別する場合には、もちろん物理的意味でつかわれることもときにはある。だが私がここで問題にするのは、認識論上の概念ではなく、(望むらくは)軽蔑的でないある意味での形而上学の概念である。」(40)
 
「アプリオリ」は認識論の概念であり、「必然的」は形而上学の概念である。
 
■アポステリオリな必然的真理とアプリオリな偶然的真理が存在する
「アポステリオリな必然的真理とそしておそらくは、アプリオリな偶然的真理とが共に存在することを、私は以下で主張するつもりである。」43
 
これを表にするとつぎのようになる。

 

アプリオリ

アポステリオリ

必然的

  ○

  ◎

偶然的

  ◎

  ○

 
○は、従来から認められている。
◎は、従来は認められていなかったがクリプキがはじめてその存在を主張した。 
 
・二つが同義と考えられた理由
理由1:従来は<必然的に真な命題は、アプリオリに知られる>と考えられていた。
「第一に、もし何かが現実世界でたまたま真であるのみならず、全ての可能世界でも真であるとしたら、頭の中で全ての可能世界を通覧することだけによって、われわれはしかるべき努力の末に、もちろん必然的な言明は必然的であると知り、したがってアプリオリであると知ることができるはずだ、という考えである。」43f
 
理由2:従来は<アプリオリに真と知られる命題は、必然的に真である>と考えられていた。
「第二の理由は、もし何かがアプリオリに知られるならば、それは世界を探索することなしに知られたのだから必然的でなければならない、という逆の考えから来るものと私は思う。もし、それが現実世界の偶然的な特徴に基づいているとしたら、探査することもせずにどうしてそれを知ることが出来るのだろう。現実世界は、それが偽であるような可能性世界の一つであるかもしれないではないか。このことは、探査もしないで現実世界について知る方法があれば、それは同じことを全ての可能世界についても知る方法に他ならない、というテーゼに基づいている。」44
 
■「分析的」の定義
「分析的言明は何らかの意味で、その<意味>によって真であり、またその<意味>によって全ての可能世界で真であるということを、手っ取り早く約定(stipulation)の問題だとしておこう。すると、分析的に真であるものは、必然的かつアプリオリであるということになろう。(これは多少とも約定上のことである)」45
 
 
■まとめ
これを表にするとつぎのようになる。

 

アプリオリ

アポステリオリ

必然的

 ○(分析的)

  ◎

偶然的

 ◎

  ○

 
 
(1)アプリオリで必然的な言明の例
     「独身男とは独身男である」
     「独身男は、結婚していない」
(2)アプリオリで偶然的な言明の例
     「棒Sはt0において、1メートルの長さである」(棒Sは、パリにあるメートル原器)
「水の沸騰点は、100度である」
「オレンジは、オレンジ色である」
(3)アポステリオリで必然的な言明の例
     「エヴェレストは、ゴーリサンカーである」
     「ペスペラスは、フォスフォラスである」
(4)アポステリオリで偶然的な言明の例
     「2008年11月に、オバマが次期アメリカ大統領に選ばれた。」
 
<「固定指示詞」(rigid designator)の説明>
「ある言葉があらゆる可能世界において同じ対象を指示するならば、それを固定指示子(rigid designator)と呼ぼう。そうでない場合は、非固定(nonrigid)または偶然的指示子(accidental designator)と呼ぼう。もちろんわれわれは、対象がすべての可能世界に存在することを要求しない。・・・ある性質がある対象に本質的であると考えるとき、われわれは普通、その対象が存在したであろうどんな場合においても、その性質はその対象について真となる、といっているのである。必然的存在者を指す固定指示子は、強い意味で固定的と呼ぶことが出来る。」55
 
<メートル原器の例による説明>
「1メートルはSの長さであるとする、ただしSはパリにある一定の棒である」62
「一メートル」という句と「t0におけるSの長さ」という句の間には、直観的な違いがある。
第一の句は、一定の長さをすべての可能世界で固定的に指示し、その長さは現実世界ではたままたt0における棒Sの長さであるということを意味する。」64 ゆえに、「t0においてS1メートルの長さだということは必然的真理とはならない。」64
「だとすれば、Sへの指示によってメートル法を固定した人にとって、「棒Sはtoにおいて1メートルの長さである」という言明はいかなる認識論的地位をしめるのであろうか。彼はそのことをアプリオリに知っているように思われるであろう。なぜなら、「1メートル」という名辞の指示を固定するために棒Sを使ったのなら、(略語や同義語による定義ではない)この種の定義の結果として、Sが1メートルの長さであることをそれ以上調べなくても彼は自動的に知るからである。他方、たとえSが1メートルの基準として使われるとしても、「1メートル」が固定指示子と見なされるならば、「Sは1メートルの長さである」の形而上学的地位は、偶然的言明のそれであろう。適当な圧力とひずみ、加熱や冷却の元では、Sはtoにおいてさえ1メートル以外の長さであったかもしれない。(「水は海水面100度で沸騰する」といった言明も、同じような地位を持ちうる)。それゆえこの意味において、偶然的でアプリオリな真理が存在するのである。」65
 
「しかし、より重要なことは、「これが指示を固定する「定義」同義性を与える「定義」との間の区別を具体的に示しているということである。」65